泉田良輔のブログ

テクノロジーアナリストの100%私見

2015年、メディアとそのデザイン&エンジニアリングについて考えてみた。有料vsPV狙いの広告モデルを超えて

メディアとしてやはり一番なのは、情報のスクリーニング機能とオピニオン機能だという考えが益々深くなってきている。突き詰めるとそれしかないとも考えている。

 

ネットの普及で、入手可能な情報量も急激に増え、そこへのアクセスコストも断然安くなった。そしてそのトレンドは今後も続くと思う。

 

ところが、情報は集まるのだけれども、何かの意思決定に絡むような有益な情報、つまり分析やオピニオンがしっかりと含まれているインテリジェンスが手に入るかというとそうではない。

 

以前は本というメディアが信頼足るメディアだった。書き手がいて、編集者のスクリーニング機能が十分に機能していたからだ。ところが、出版業界の状況もあるのだろうか、個人的意見だが、書籍の質を犠牲にしながら、数量を求める傾向にもあるようなので、むしろ昔よりもインテリジェンスを入手するのは難しく、手間ひまのかかる作業になったかもしれない。結果として、情報入手という環境は整備され便利にはなる一方、情報のキュレーションの必要性が叫ばれてきたわけだ

 

ところが、キュレーションは、誰にでもできる訳ではないし、優秀な人がすべての情報に目を通せる訳でもない。ある意味、キュレーション自体が有限のリソースという訳だ。

 

美術品にキュレーターがいるのは、歴史とともに作品数が増え、贋作もある中、キュレーターが必要であるからだ。また、それは高価な値がつく作品を中心に調査をすれば良い=>結果として評価しなければならない数が限られる?ので、ビジネスとしては成立するのだろうか。美術のキュレーターに関してはどこかで一度インタビューしてみたい。さて、こと情報に関してはお金の出し手とその調査の対象は曖昧なのが厄介なところだ。

 

ただ、美術のキュレーターに関しても万人に必要という訳ではない。美術に興味がない人には、終世美術のキュレーションには関係ない人かもしれない。その意味では、情報も関係ない人には関係なく、(インサイトのない)情報を見ても何か幸せになったり学びになる情報であればそれで良いかもしれない。贋作でも、(所有者にとって)美しく意味のあるものも存在するであろう。つまり、キュレーションは、究極的にはオフィシャルなものでは意味があって、プライベートなものには関連性が弱いということだろうか。

 

メディアは、キュレーションとオピニオンの有無が判断基準と述べたが、個人的には、接点の多いメディアが良いメディアだと思っている。興味がある人がその興味のあるメディアと接するのは当然なのであるが、そうでなかった人も何らかしらの接点があり、はじめて接する機会を持てることができれば、それは一つメディアの役割としては果たしたということだと思う。

 

同じコンテンツを見ても、人によっては意見が違うし、その反応も異なる。したがって、興味にある人だけが読んでくれればよいと考えるのでは、メディアは自分の枠を自分で決めてしまい、メディア自体の変化の可能性を消してしまいかねない

 

その意味で、ある程度のクローズド感とある程度のオープン感の絶妙なバランスをメディアデザインとしては必要なのであろう。 メディアのクローズともしくはオープン戦略は、事業モデルにも直結する内容なので、メディアデザインと経営はほぼ同義であると考えているが、正直こうした議論はこれまであまり見てきたことがない。有料か無料か、コンテンツ売りかPV狙いの広告モデルという議論しか目にすることがない。というとハイブリッドモデルがあるだろうという答えが返ってくるが実はそれは妥協案にすぎない。その2項対立議論を超えて、新しいモデルが必要だし、その兆候もある。

 

さて、私は、編集が効いていないものはメディアではないと考えている。それは、一つのコンテンツに限ってもそうであるし、コンテンツの集合体についても同様である。単純にいろいろな人が好き勝手なことを言っているのは掲示板である。一方、仮にそこに、キュレーションやガイドが入ればメディアである。

 

こう書いていることからもお分かりだろうが、メディアは世の中の一部をある一定の観点から切ったものだ。したがって、メディアにバイアスがあるのはある種当然といえる。

 

情報に対して、キュレーションとオピニオンがあって、バイアスを排除しきるというのは難しいであろう。つまりメディアとは誰かの世界観であって、その世界観を共有できる人が愛読者となり、その世界観を共有できない人でも興味があればそれは、メディアのキャラがたっているということができる。

 

先ほどメディアには接点が重要と述べたが、ここに必要なのはデザインとその画を実現するためのエンジニアリングだ。

 

メディアは、世の中の一部を切り出したシステムである。つまり、システムの目的を果たすためには、エンジニアリングが必要である。メディアの目的は、鉄道のように「A地点からB地点にものを運ぶ」というものではなく、もう少し対象とその結果が曖昧だ。したがって、より事前に想定しなければならないことが多い点が難しい

 

メディアエンジニアリングの方法論は、明文化されたものはないが、どういった対象が、どのようなスタイル(有料か無料か)でほしがっているかにも大きく左右される。また、新スタイルのメディアの在り方が確立されれば、そのスタイルも変わってくる。

 

メディアはクローズドで読ませたい人だけに読ませれば良いと考えていると、エンジニアリングも簡単であるが、より多くの接点を増やすということを考えれば、エンジニアリングは非常に複雑になる。要はそこが楽しめるか、そうでないかというところが重要だ。

 

メディアというのは、人間の営みの縮図の気がしてきた。