日本と米国の研究開発の違い。ステージゲート・プロセス、ベンチャー、大学の関係
研究開発は日米で差があるように言われるが、実際はどうなのであろうか。金子浩明「ステージゲート・プロセスの作用と反作用」は面白い。本書を見ながらその差や歴史について見ていこう。
(「技術経営の常識のウソ」の第3章にある)
日本の研究開発の歴史と現状
本書をサマリーしながら見ていこう。
1980年代以降、米国は研究から販売にまでつながる開発体制を見直していった。
基礎研究は大学とベンチャーに任せ、企業内の研究開発投資を事業に近い領域に絞った。
これは米国が企業内の基礎研究をうける大学やベンチャー等の受け皿があったからできたともいえる。
しかし、日本はその間に基礎研究にシフトしていった。
それは日本の事業が拡大し研究もキャッチアップ型からイノベーション型に変化したことにもよる。
一方、1990年代には日本の研究開発は機能不全に陥っていた。
- 出口が見えず、研究段階で滞留するプロジェクトの増加(棚上げ)
- ポートフォリオでリスクの高い初期段階の研究開発の増加(リスクのとり過ぎ)
- 市場の要求するスピードと研究開発それのミスマッチ
というのが主な症状のようである。
その後2000年代に入り日本企業は米国で使用されていたステージゲート・プロセスを導入する。
バブル時にどの企業も研究開発体制を肥大化させてしまっていたのだ。
しかし、バブル崩壊後企業もコスト削減しなければならなくなったからだ。
また、研究開発段階で知財のチェックを行う必要があった。
気付かずに他の知財を利用し最終的に製品化すれば、訴訟のリスクがあるためである。
ステージゲート・プロセスとは何か
ステージゲート・プロセスとは研究開発をいくつかのステージに分け審査のゲートを設ける。
こうしたプロセスを繰り返すことで有望なテーマを絞り込んでいくのである。
ステージゲートを使うメリットとして以下の点をあげている。
- プロジェクトの中止のしやすさ(大義名分・研究者の説得の材料)
- 研究者の活動の道筋が明確になる
- 管理プロセスの明確化で研究者とマネジメントの意思疎通が改善
- リスク管理
というような具合である。
ステージゲート・プロセスのデメリット
ただし、著者は当然ながらデメリットをあげている。
一番は、将来大きな花を咲かせそうな研究を芽の小さいうちに刈られることである。
研究として時間がかかるケースは、初期には結果が見えにくい事例が多い。
そこをスコアリングでスクリーニングをかけられると残らないというものである。
東芝でNANDを開発していた竹内教授も言うように、結果として「アングラ研究」になってしまう。
これではステージゲート・プロセスの意味がないというものである。
日本は研究開発をより効率的にすれば営業利益率はもっと上がるといつも思う。
(日本の電機産業だと営業利益率は5%を目指し、研究開発費は5%以上ある)
ただ、日本はベンチャーや大学が研究開発のインフラになっているとは言い難い。したがって、一足飛びにはアメリカのような体制にはいくことはできない。
カネの出し手はどこか、何に絞るか、誰がやるか
まずはカネの出し手がどこかを考える必要がある。企業においては自らのキャッシュフローからと経産省の補助金、大学では一部企業からと主に文部科学省からの補助金という資金調達手段が主体である。
企業と大学ではカネの出し手が異なっているのである。まずはこれを一本化させてやる必要がある。
日本という国でテーマに応じて行う研究開発は「どこどこ大学」と経産省から出せばいい。
将来産業や事業として成立しない研究開発は日本もここまで来るとあきらめざるを得ない。
iPSを見れば分かるが、社会貢献と事業性は同時に成立しうる。二律背反なんてウソだ。
「本当のアイディアとは複数の問題を同時に解決する」by 任天堂 宮本茂氏
分散させるな
さて、テーマが重複していることと研究開発資金が分散することほど非効率なことはない。
テーマはいっぱいあっても良いが、大学とプロジェクトくらいは絞ってほしい。
日本は国として研究を大学に戻せば良いと思う。
こんなこと言うと怒られるが、大学は結構ヒマしてそうにみえる。
(つまり日本の大学はもっとやれるポテンシャルを持っているはずだ)
国から研究者に「それなり」に給与を渡せば、彼らは好きなことをしている限り文句はでない。
彼らには残業手当という概念もないのではないか?
こうすれば、国で見れば研究開発の効率が格段に上がる。
人間は最低限の生活と好きなことができていれば、Greedyにはなりにくい。
個人的には文科省は学校の管理と教育の質をいかに高めるかに集中すればいいと思う。
なんで「科学」まで文部省にまでもっていったのだろうか。疑問。